どうして私は「世界」が怖いのか

 私がいま感じている「怖さ」は、実は結構根が深いんじゃないかということに思い当たったので、今日はそのことについて書いてみようと思います。


 私が自分がゲイであることを自覚したのは中学生のときでした。幸いにも、ゲイであることが悪いことであるという刷り込みは受けなかったので、自己否定という最悪な事態には陥らずに済みました。
 でもその代わりに、ゲイである自分を受け入れてくれる人が身近に存在するかも知れないという希望は、全く見出せませんでした。ゲイであることは決して悪いことではない。でも、それを「世界」は受け入れてくれないだろう…そう思い込んでいました。それは、「普通であること」「人並みであること」が絶対的な価値観である家庭に育ったことや、実際に他のゲイの人に会う機会が訪れるまでそれから何年もかかったことが関係しているのではないかと思います。
 そんなわけで、「世界」は全て私の敵であると思い込んでいたので、思春期から成人するまでの間、私はずっと孤独でした。私の第一回目のウツは、思い起こせばこの時期に発症しています。高校生(高専生)のとき、やがて卒業が間近になってきて就職のことを考える時期が来るまでに、私は深い絶望感に捕らわれていました。社会に出るということ、それはすなわち「敵」しかいない場所に一人で飛び込んでいくことを意味していました。そんな恐ろしいことが自分に出来るわけが無いと思い、追い詰められ、「死」を考える日々が続きました。
 でも、結局死に切れませんでした。

 そこで私が選んだ道は、とりあえず社会に出ることを先延ばしにすること。つまり、就職という道を選ばずに大学に進学するということでした。


 大学に進学して、岡山での一人暮らしがスタートすると、私の人生は大きく変わりました。やっとゲイの知人ができ、何も隠さずに話すことができる友達の輪が広がって、私はなんとかこの世界の中に自分の居場所を見つけた気がしました。
 でも実は、根本的なところでは「私」と「世界」の関係は変わっていなかったとも言えます。私の居場所である小さな友人の輪を除いては、私にとって「世界」は相変わらず私を拒絶する存在であり続けていました。カミングアウトしていなかった学生時代の友人達や職場での同僚との関係は、あくまでも壁を一つ隔てた上でのものでしかなく、心を許すことの出来ない関係でしかありませんでした。


 いま私が何を怖がっているのか。それはやはり、カミングアウト(しないこと)と深く関わっているのだと思うんです。職場でも、営業先で知り合うであろうお客さんとの関係も、私がクローゼットであり続ける限りは、常に緊張を強いられる「敵対関係」でしかありえない…のだという思いが私には刷り込まれているんです。
 でも、世の中の多くのゲイ(やセクシュアルマイノリティ)は、そうした人間関係をうまく乗り越えているんでしょうね。だから私にだってできない筈は無い…そう思うものの、やっぱり自信が無いんです。ゲイである自分と、それを表に出さないで他人と付き合うという二重生活は、私にはあまりにも負担が大きすぎる気がします。
 それとも、いま頭で考えるからそう思えるだけなんでしょうか。現実にそうした生活がスタートしてしまえば、なんとかなるものなんでしょうか。


 本当は、私は「世界」を敵に回したくは無いんです。
 狭い「私(友達を含む)」を飛び出して、カミングアウトした上で、それでも私を受け入れてくれる世界を築いてみたいんです。
 けれども、それを実行するのもやっぱり怖い。
 カミングアウトすることの怖さ。カミングアウトしないままでいることの苦しさ。その二つに挟まれて、いまの私はもがいているんです。