『yes』買ってきました

 
 朝(と言うか昼)に目覚めたとき精神状態は相変わらず低空飛行で、今日もこのまま引きこもって過ごそうかと思ったのですが、いやいやそれでは何事も変えられん!と思い直して堂山のTSUTAYAまでお出かけして『yes』を購入しました。福島まで戻って某カフェで読もうと思ったら、店頭に「土・日・祝日は禁煙とさせていただきます」とのお達しが。がーん。仕方ないのでいつものミスドに行って一服しながらゆっくりと読みました。(っていうか禁煙しろよという気もする)


 エロ抜きのゲイ(一応『LGBT向け』と謳ってはある)雑誌ってどんなかなーと思いながら読んでいると、案の定主に海外のゲイカルチャーとかファッションとかライフスタイルを取り上げてありました。全体の感想としては、私とはあまり接点がないかなーという感じ。
 もっともこれは『QJr』を読んだときにも思ったことで、本の内容云々の前にいまの私の精神がそういう情報を取り入れて反応できるだけの状態に無いんだと思います。鬱とどう向き合っていくかということと経済的な問題を同時に抱えたままでは、「ゲイライフ」を味わう余裕がない。多分、そういうことなんじゃないかと。


 でも。
 私がどんな精神状態であろうともどんなに経済的に逼迫していても、私がゲイであることは揺るぎの無い事実なわけでして、となると本当は『QJr』も『yes』も何かしら私にとって意味を持つ部分はあるはずだ…とも言えます。
 あー何が言いたいのか自分でもよく分からない(^_^;


 これまでの私の人生の中で「ゲイであること」(もっと大雑把に言えば「マイノリティであること」)は大きな意味を占めていたし、そのことに依って私は様々な場面で様々な選択をしてきました。鬱になったことも、学校を卒業した時点で「普通のサラリーマン」という道を選ばなかったことも、私がゲイであることと切り離して考えることはできません。
 今後、どんな人生を送ることになるかは分かりませんけれど、きっとこれからも同じように「ゲイであること」は私の生き方を決める一つの指針になることは間違いないだろうと思います。
 幸いにも、私は自分がマイノリティであることは決して不幸なことだとは思ってきませんでしたし、きっとこれからも変わりなく自分のアイデンティティを受け入れて生きていくでしょう。その上で、「世界」と私がどんな接点を持つことになるのかを、(こんな鬱の真っ只中でさえ)私はワクワクした気持ちで考えることができます。
 この気持ちを、いつもいつまでも忘れないでいることができれば、私はいつか再び鬱のトンネルを抜けて、人生を味わう余裕ができてくるんじゃないかと思っています。


 …だとすれば、「鬱である自分」や「貧乏である自分」だって、考え方次第で楽しめる筈ではないのかしら? とも思うのですが、どうでしょう。
 うーん、やっぱ難しいかな。