ブロークバック・マウンテン

私は、これを「ゲイ映画」だとは思わない。「純愛映画」だとも思えない。「はじまりは、純粋な友情の芽生えだった」とかいう予告のコピーは嘘だろと思う。私の主観的な判断では、この映画は「ホモフォビアを内在化した二人のバイセクシュアルの男のダブル不倫映画」だ。


21世紀の日本の、しかも大阪の堂山(ご存知キタのゲイエリア)まで徒歩30分の場所に住んでいて、思春期の始まりから自分を「ゲイ」だとアイデンティファイしてきた私は、そりゃあ少々の苦労はあったけれども、ゲイ雑誌やら伝言ダイヤルやら各種ハッテン場やらネットの掲示板やらゲイバーやら(ゲイの)サークル活動やらという環境やツールを使ってそれなりにゲイ人生を楽しんできた。そんな私には、ホモフォビアが原因でリンチ殺人が当然のように起きる時代&環境で生きる主人公の二人に心の底からシンパシーを抱くことは無理だ*1。結婚するゲイやバイセクシュアルを非難するつもりはさらさらないが(正直言えば私には既婚者フェチの気が多少あったりもする)、だからと言って既婚ゲイやバイセクシュアルに自分を重ねてみることは不可能だ。

そのせいだろう、私はこの作品を随分と醒めた目で見てしまっていた。見終わった直後の感想は、「これでアカデミー賞最多ノミネートなん? いい映画だとは思うけど、どっちかって言うと地味で、世間でそんなに騒ぎ立てるほどのものでもないんじゃない?」だった。


けれども、純愛云々の宣伝文句を無視して、最初に述べたように「ホモフォビアを内在化した二人のバイセクシュアルの男のダブル不倫映画」として捉え直してみると、この作品が恐ろしくリアルに描かれたストーリーであることがよく分かる。

私が一番リアルだと思ったのは、イニスとジャックの関係の成り立ちだ。二人の間に最初に芽生えたのは、断じて「友情」などではない。二人の関係は「欲情」から始まったのだ。「いきなりアナルかい!」と突っ込みを入れたくなるような、最初の情交のシーン。物語は全てここから始まっているのだと私には思える。有無を言わさない、爆発的な欲望の発露。これこそが私にも理解できる「リアルさ」なのだ。

男同士のセックスを経験した人の多くは、心当たりがあると思う。少なくとも私には分かる。「とりあえず、ヤリたい」から始まる関係。それはその場限りで終わることが多いが、この映画のように長く続く関係の始まりであることだって少なくない。イニスとジャックの場合、会いたくてもなかなか会えないという環境が、逆に「会いたい」という気持ちを募らせることになったとも考えられる。

最終的に二人の関係が「愛」と言われるものに変わったのかどうかは、私には何とも言えない。それは、私が「愛」という概念をあまり信用していないからだ。その代わり私に言えるのは、「あいつとヤリたい」という欲望が、時に切なく狂おしいほどに激しく相手を求める感情の高まりにまで達しうるということだ。


この作品の凄さは、監督アン・リーがそのような人間の「欲情」を描ききったところにあると私には思えてならない。むき出しの、生身の「欲情」(「性欲」「欲望」「セックス」「業」とも言える)。今までの「ゲイ映画」の多くが、セックスを「愛」というロマンティックなオブラートで包んで(悪く言えば「誤魔化して」)きたこととは一線を画する。この点において「ブロークバックマウンテン」は実に斬新だ。ある意味、真のゲイ(正確には「ゲイ」ではなく「男とセックスする男」であろうが)映画が遂に登場したと言えるのではないだろうか。


もう一点、この映画のリアルさは、やはりホモフォビアとマチズムの描き方だろう。リンチ殺人に明示される外的ホモフォビアもさることながら、自分を「カマ」にアイデンティファイできないという内的ホモフォビアと、繰り返される暴力の描写によって示される「男らしさ」という呪縛。(この暴力シーンは見ていてかなりシンドかったなぁ)


これらの素材を、単純なストーリーの中に巧みに織り入れたアン・リーの手腕は見事としか言いようが無い。そう思うとき、初めて私にはこの映画がいかにセンセーショナルなものかということが理解できた。

でも、でも、でも…私は、ハッピーエンドの方が好きだ。たとえそれが「ビッグ・エデン」のようなおとぎ話であろうとも。それから、雄大なブロークバックマウンテンの自然の描写も見る前に期待したほどではなかった(少なくとも「ビッグ・エデン」に比べて)。それ以外は文句のつけようの無い映画だったと思う。

*1:本当は日本でも「ホモ狩り」による殺人事件は起きてます。念のため。